虹の橋
物心がついたのは何時頃だっただろうか。
小学5年生のときぐらいだろうか。
それでも何となくしか覚えていない。
毛むくじゃらが来たのは僕が小2の頃。
尻尾の生えているただの小さい毛の塊で、緊張と恐怖で家中の家具を齧って暴れまわっていた。
僕自身も物心がついておらず自分自身の存在が曖昧な状態だったので、心の読めない体の小さいやつが増えただけだった。
でも、死ぬほど嬉しかったのだけは覚えている。
もう1人の弟だった。
自分と異なるのは、人間の形をしていないことだけ。
人間の形をしていないだけの、ただの愛の塊だった。
可愛いなんて、何て浅はかな言葉なんだろう。
愛おしいなんて、何てちっぽけな言葉なんだろう。と思う。
もっともっと心の奥底の、言葉でなんか表せないような深く重い愛情の権化。
形容しようのない愛すべき小さく重い命。
想うだけで、胸のあたりがじんわり温かくなる存在。
14年7ヶ月。
僕の自我が形成される全ての期間において、ずっと隣に存在していた。
そんな彼が僕のそばから離れて1年が経つ。
本当に一緒に暮らしていたのだろうか。
夢を見ていたんじゃないか。
こんな生活が送れればこの上なく幸せだと、幻想を抱いていたんじゃないか。
そんな風にまで思ってしまうほど不思議な感覚だ。
諸行無常。
永遠に続く命なんかない。それはずっと分かってる。
でも、納得はできていない。
我儘を言わせてもらえるなら、永遠にそばにいて欲しかった。
自分の人生の隣に、ずっといて欲しかった。
「片割れ」という言葉がある。
・・・対になっているものの一方
・・・1つのものから分かれたもの
という意味がある。
その通りだ。
お互いが生まれる前から、僕らが出会う運命は決定していたに違いない。
出会わないというパラレルワールドなんかなく、出会うという1本道の時間軸しかない。
そうじゃないと、今の自分はいない。
自分のことを誰よりも信用して理解してくれる存在だった。
僕より後に生まれたくせに、僕より先に去って行くんだな。何てやつだ。
何で神様は、その毛むくじゃらの寿命をたった15年に設定したのか。少な過ぎるだろう。
僕の人生はこれまでもこれからも大事なのに。
こんな大事な時にいないなんて。
今でもよく夢を見る。
既にいなくなっている自覚があり泣きながら抱きしめる夢と、いなくなっていることを知らず笑いながら遊ぶ夢。
泣いて目を覚ますときもあるが、どちらを見ても幸せだ。
会いに来てくれている気がする。
どんな姿でも、愛には変わりない。
こんな物語がある。
天国の手前には虹の橋がかかっている。
そこには草地や丘があり、豊富な食べ物や水もあり、暖かな日光もある。
病や不自由な体は癒え、健康になる。
動物たちはしばらくそこで元気に暮らす。
しかし、彼らにとって1つだけ満たされていないことがある。
それは、「再会」だ。
彼らが会いたくて仕方がない人。
彼らは、自分が最も愛する特別な人との再会を待っている。
ある日、彼らは立ち止まる。
遠くを見つめる。
彼らの瞳はキラキラと輝き、体は喜びで打ち震える。
彼らは群れを離れ、草原を全速力で駆け抜ける。
特別な人が来たのだ。
顔を舐め、愛を示し、抱き合う。
彼らは、特別な人が虹の橋に来るのをずっと待っているのだ。
僕の片割れも待っているに違いない。
老いた体は若返り、弱った足腰は復活し、食欲も無限になっているに違いない。
待っててほしい。必ず迎えに行くから。
何年先になるか分からないけど、必ず会いに行く。いつまでも待っててほしい。
散歩に行こう。
サッカーしよう。
一緒に寝よう。
この間まで普通にやっていたことをしよう。
本当に愛してるよ。
ゆっくり待ってておくれ。
愛を込めて